大手メーカー頼みの収益構造からの脱却
静岡県の中部に位置し、かつては東海道の島田宿として栄えた島田市で1953年に清涼飲料水メーカーとして設立された木村飲料。戦後の最盛期には全国各地に1000社以上の飲料メーカーがあり、静岡県内でも約30社の同業者が凌ぎを削ったという。しかし、70年代後半から80年代にかけて大手飲料メーカーの自動販売機の設置台数が増え、コンビニやスーパーといった大手メーカーの販売チャンネルが広がるにつれ、まず地元の販売チャンネルだった酒屋、駄菓子屋、米屋といった業種が苦境に立たされた。それに伴い、地元の販路を失った中小の飲料メーカーは次々と姿を消していった。
木村社長が現在の地場系飲料メーカーの状況について、こう説明してくれた。
「現在では全国で100社ほどにまで減り、そのうち実際に事業を行っているのは約半数。つまり各都道府県に1社ずつが残っているような状況です」
そんな状況下で、同社は地道な活動で販路を維持してきた。
「島田市は静岡市と浜松市という大きな街に挟まれた田舎の街でしたので、地元飲料メーカーとしては人口の少ない分アイテムを増やしていかないと商売になりませんでした。大きな街にあるメーカーは、例えばサイダー1種類でもやっていけましたが、うちは炭酸飲料、無ガス飲料、コーヒー、ミルクセーキといった幅広い商品を作っていました。そのおかげで、お得意様が少ない中でも売上を確保することができ、地元でも最後まで何とか生き残って来られたわけです」
同社がオリジナルのヒット商品を生み出すまでの収益構造は、OEM商品やPB製品などが7割を占め、残りの3割が自社製品という状態だったそうだ。
「大手からの受注は景気の動向による増減が顕著に現れるので、経営に与える影響も大きい。ですから、自社ブランドを広げる方向に移行しなければならないと考えていました」
とはいえ、収益構造を改善するほどのオリジナル製品を作ることは容易ではない。
「以前は、大手メーカーの真似をしていました。今年はマンゴ風味が流行るとなれば、うちもマンゴ味の飲料を作るという感じでしたが、売れずに在庫ばかりが残ることも。一時期は新製品の開発を諦めていた時期もあったほどです。結果、大手メーカーの下請け受注に頼るという構造になっていました」
しかし、ある時期を境に、オリジナルのユニークサイダーが次々と生み出され、収益構造も改善。現在は、大手からの受注製品と自社製品の割合が、半々にまでなっている。
そのきっかけとなったのは、同社の営業部長が提案した「必勝合格 ダルマサイダー」という商品企画だった。