素人集団が始めたビール造りに吹いた逆風
1996年、飲むこと以外は造るのも売るのも初めてという7人が始めたビール造り。長野県佐久市にある醸造所で取材に応じてくださった井出直行社長は、創業当時をこう振り返る。「私を含めた7人のメンバーは、ビール造りについて完全な素人。販売や流通に関する知識や経験もありませんでした」
素人集団のビール造りは、ヤッホーブルーイングの創業者で親会社である星野リゾートの社長・星野佳路氏が米国留学中に好んで飲んだ風味豊かでコクのあるエールビールを日本にも広めたいという思いからスタートした。
とはいえ、社長である星野氏は具体的なビール造りや販売に深く関る事はなく、実務については井手氏以下7名による手探りでの船出となった。「まず、醸造についてはアメリカにあるシーベルという醸造学校へスタッフを留学させて学ばせました」
1997年に醸造所が完成。しかし、品質にもバラつきがあり狙った味にはならないままの発売となったという。「ようやく販売にこぎ着けたと思ったら、ひと月目に機械が故障して製造が3ヵ月ストップしてしまいました」
こうした災難はあったものの売れ行きは好調だった。しかし、この好調の背景には、ヤッホーブルーイングの力だけではない理由があった。「当時は、日本全国で地ビールブームが起こっていましたし、『よなよなエール』が地ビール初の缶ビールであったことや他に比べて安かったこともあり、正直、何もしなくても売れました」
1999年には前年比30%を上回る売上げ増を達成したが、それをピークに安定どころか下降線をたどるようになる。「ブームが去り、あの頃には、地ビールに対して『価格が高い』『個性的過ぎる』『品質が悪い』という3つのマイナスイメージが残りました」
ギスギスする社内に、ひと筋の光明が指す
売上げの低下には歯止めが利かず、対前年比8割という状態が2003年まで続いていた。その間、長野県ローカルでTVCMを流したり、スーパーや酒屋に訪問販売をしたり、試飲会を各地で開催するなど打開を図った。それでも、売上げが改善することはなかった。
何をやっても売上げにつながらない。そんな状態が何年も続けば、社内の環境も当然のことながら悪くなる。「社内は、ビールを造る側と売る側とで関係が悪化しギスギスしていました。『こういうビールは日本に受け入れられることはない』という声すらあがったほどです」
7人でスタートした従業員は一時期約20人にまで増えたが、この頃になると販売低迷により半数が会社を去って行った。