25年の時を経て、ドライエイジングビーフと再開した衝撃
大正3年の創業から100周年を迎えた静岡県富士宮市の老舗精肉店、さの萬。その三代目として精力的に商品開発に取り組んできた佐野佳治社長が、初めてドライエイジングビーフと出会ったのは1980年代のことだった。
「今から33年前になりますが、お肉屋さんの視察でニューヨークへ行った時に、180年の歴史を持つマンハッタン唯一の精肉店『ローベル』を訪ねました。そこには真っ黒い肉が並んでいて、『これはドライエイジングビーフといって、富裕層が食べる肉だ』と言われたんです」
名前の挙がった富裕層には、ジョン・レノンやケネディ大統領のファーストレディーであるジャクリーン・オナシス、さらにはロックフェラー一家といったVIPたちがいた。
ところが、1980年代初めといえば、日本では霜降り肉が全盛の時代。佐野社長がドライエイジングビーフを日本で売りたいと思うには、2000年代に入るまで時間を要した。
「8年前にニューヨークでレストランを展開している高校時代の同級生が、息子さんの結婚式に私を招待してくれましてね」
そうして訪れたニューヨークで、結婚式に出席した翌日にその同級生から「お前は肉屋だから、自宅の近所にあるニューヨークタイムズで全米ナンバー1と言われているステーキハウスへ連れて行ってやろう」と誘われたのが、ブライアン・クーパーというステーキハウスだった。
「そのとき、『佐野がステーキをひと口食べて顔を下に向けたままだったので、まずい!なんて言われたら困ってしまうなあと思っていたら、しばらくして、うまい!と叫んだ』というのは、一緒にいた友人の証言だ。「肉屋ながらにして赤身の肉汁の旨さを改めて痛感したのです」
佐野社長は、その鮮烈な出会いの前にも視察のため2~3年に一度はアメリカを訪れており、ドライエイジングビーフを食べる機会もあった。しかし、この時ほどの衝撃は受けなかったという。それは、常に日本における消費者のニーズを感じ取りながら、それに応える形で商品選びをしていたからだ。
「日本でも、その頃から霜降り肉は脂が多くてしつこさもあり、ひと切れかふた切れはいいが、たくさん食べると胃がもたれてしまう。お客様からも赤身でおいしいお肉はないのか?という声がありました。そうしたこともあり、ドライエイジングビーフを日本にも導入したらどうかと思うようになったのです」
こうして佐野社長は日本では馴染みの薄い新たな牛肉の味わい方として、ドライエイジングビーフを扱うことを決めた。ところが、納得のいく商品を作るに至るには決して楽な道のりではなかった。
顧客ニーズを拾う、という事
日本での販売を視野に入れ、当初はアメリカからの輸入を考えていたが、BSEがアメリカと日本でも発生したことで、輸入は諦めざるを得なかった。
「ならば日本の牛肉でやろうと思い、アメリカでドライエイジング専門の肉屋さんを何軒か回りながら作り方を一から教えてもらって歩きました。ドライエイジングビーフを作るためには、温度が1℃~2℃、湿度は70%で、常に肉の周りに強い風を当てる環境が必要だということを知りました」
さっそく日本に帰り、その通りにやってはみたもののうまくはいかず、失敗の連続だった。冷蔵庫の業者を伴ってアメリカに渡り熟成庫の作り方も研究したが、自社で使っている冷蔵庫と変わりがないこともわかった。
ドライエイジングのポイントとなる「熟成香」を醸し出す微生物を特定するため日本の研究機関はもちろん本場のアメリカにも足を運んだ。そして、ようやく納得のいくドライエイジングビーフを作る事に成功する。ここへ至るまでには、2年半の歳月が流れていた。