「長年ご贔屓にしていただいていたウエスティン都ホテル京都の水野総料理長が、7年前に岐阜都ホテルへご異動されたんです。岐阜ではなかなかお目に叶うパンが無かったようで、『モーニング用のクロワッサンを配達してくれないか』と相談を受けまして…。最初は冗談かと思い、それはちょっと勘弁して下さいと(笑)」
しかし、水野さんは「それなら宅配便か何かで送ってくれないか。送料は負担するから」と真剣だったという。ただ、京都の工場で焼いたパンをその日のうちに宅配便で岐阜へ届けるのは、どうしても無理だった。
老舗の味を変えることなく冷凍するということ
「京都時代には、当日に焼き上がったものを3回に分けて届けていました。それほどパンへのこだわりが強い方からのリクエストだったので、真摯に受け止めて、良い方法はないかと思案したのです。辿り着いたのは、焼成後に冷凍したパンを届け、現場でリベイクしていただくという方法でした」
一般的に、パンは冷凍すれば老化が止まるといわれるが、どういう状態で冷凍すれば最も老化が進まないかを見極めるのは容易ではなかった。
「焼きたてアツアツで冷凍庫へ入れたらどうなるか、中心温度が何度の時が最適かなど、試行錯誤の連続でした。味や食感などの官能検査を繰り返すなかで、24時間冷凍させればそこからは老化が進まないという結果に辿り着いたんです。試作品を水野シェフに送ったところ、『これこれ、この味を待ってた』と大変喜んでいただけました」
そんな西川さんの話を聞きながら、既に業務用の冷凍パンが流通している時代に自社製品を冷凍して届けることの何がそれほど大変なのかという疑問が湧いてきた。
「仰るとおり、もともとあるパンを冷凍しただけです。でも、添加物やフレーバーを加えていないパンの味を損なうことなく冷凍するのは、結構大変なんですよ(笑)。もしかすると、冷凍用に新しく作りなおしたり、冷凍しなくても日持ちするように保存料を加えたりした方が簡単だったかもしれません。でも、それでは本末転倒で、進々堂のパンとして存在価値はないんです」
進々堂のパンの特徴は、表面はカリっと香ばしく、中身はしっとり柔らかいという絶妙の食感と、噛めば噛むほど増していく小麦本来の甘み。今の時代、添加物やフレーバーを加えて味の調整をすることは簡単だが、それは一切しないというのが初代から受け継がれる進々堂の伝統だ。
京都を離れた名シェフから求められたのは、そんな長年愛し続けた進々堂の味である。既存商品だからこそ、冷凍によって変化することは許されなかったのだ。