肉屋の息子に生まれ、現場を知り、業務用卸を経験する
【Q】ご実家は1930年創業の老舗精肉卸で、独立されるまでは家業に入られていたんですね。
父方の実家が祖父の代から続く精肉卸「萬野総本店」で、僕は3人兄弟の末っ子。小さい頃から親や兄と一緒にと畜場へ行って、牛が捌(さば)かれて肉になっていくのを見てきました。中学時代には、実際にその作業を手伝っていましたね。
21歳で萬野総本店に入社して、まずは捌き職人として修業を積みました。父が亡くなった後は長兄が会社を継いだんですが、僕は小売部門を担当して、デパ地下や公設市場、スーパーに出店していた直営店の管理を任されてました。
【Q】業務用の卸も担当されていたと。
小売部門の最後に、公設市場の中にある店舗を担当したんですが、そこがものすごい大赤字で。父が独立して初めて作った店やったんで、「何とか立て直したい」という一心で動き回っていました。
そのとき、大阪で居酒屋チェーンを経営するUGグループの宇都宮俊晴社長に出会ったんです。僕のことを気に入ってくれて、「よっしゃ、来月からウチの店に肉を持って来い。買うたる!」と。社長さんのお店が入っているビルには、他の飲食店も入ってたんで、納品ついでに毎日飛び込みで営業して回りました。あっという間に取引が増え、2年弱で大阪市内での得意先が1000店舗ぐらいになってましたね。
仕入れを通じて募らせた、食肉業界への疑念と飲食店への想い
【Q】そこから、ご自身で飲食業に進まれるきっかけはあったのでしょうか?
本社に戻ってしばらくしてから、仕入れも担当することになったんです。当時、萬野総本店は、8つの直営牧場以外に48の提携牧場がありました。僕が仔牛を買ってきて、祖父の代からお付き合いのある農家のおじいちゃんやおばあちゃんに、「よろしくお願いします」と頼んで育ててもらうわけです。
生産者さんには、盆も正月も一切関係なく、毎日牛と正面から向き合って育ててもらってます。だから、出荷する時は、前日の夜にトラックに乗って伺い、一緒にお酒を飲みながら、晩ご飯をよばれます。一晩泊まらせてもらって、出荷の朝を迎えるんです。
いよいよ牛舎から牛を連れ出すとき、おじいちゃんが手綱を引っ張って、おばあちゃんが牛のお尻を押すんですが、牛は嫌がってトラックに乗ろうとしません。
そりゃ2年も3年も一緒に過ごしたんやから、牛もおじいちゃんとおばあちゃんに愛着が湧いてますよね。それで、ようやくトラックへ乗る寸前まできたとき、おじいちゃんが牛の頬を両手で“パンパンパンッ”って叩いて、「がんばっといでや!」って声を掛けるんです。
初めてその光景を目の当たりにしたとき、「これだけ大切に育ててもらった牛を、僕らが粗末に扱ったら罰が当たる」「絶対に直球を投げて勝負したい」と思ったんです。それは、萬野屋の「すべてのお客様に対して嘘をつかない」という理念の原点でもあります。