卸・メーカー2013.06.02

創業100年の油屋が作る極上ドレッシング~筑前たなか油屋

2013.06.02

なたね油を搾り続けて100年以上。明治時代から続く福岡の老舗油屋・筑前たなか油屋様。油のプロフェッショナルである同社の田中社長に、食用油の歴史から、作り方、さらに賢い使い方まで、油のいろはをうかがいました。無添加にこだわった同社の無添加「生」ドレッシングは、メニューや商品の差別化にぴったりです!

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なたね油を搾り続けて100年以上。明治時代から続く福岡の老舗油屋・筑前たなか油屋様。油のプロフェッショナルである同社の田中社長に、食用油の歴史から、作り方、さらに賢い使い方まで、油のいろはをうかがいました。無添加にこだわった同社の無添加「生」ドレッシングは、メニューや商品の差別化にぴったりです!

目次

-●御社の歴史を教えてください。
まず、ここ「筑前・原田」のことからお話しすると、江戸時代、原田は長崎街道(長崎と小倉をつなぐ街道)の筑前の1つ目の宿場町として、大変栄えていました。また、九州一帯は菜の花の産地で、原田でもたくさんとれたと聞いています。宿屋ではその菜の花からとれるなたね油を、灯明用の油として旅人に販売していたのです。当時の宿屋は今のガソリンスタンドのような役割もあったのですね。

 「筑前たなか油屋」の起源も、江戸時代に米商人であった初代・弥四郎が、裏作で採れる菜の花を搾ったことにはじまります。しかし、それは油屋であり米屋でもある田中家の家業の話ですので、油屋としての創業は明治34年とさせていただいています。現在は伝統の手法・味を守りながら、詰めたてなたね油やごま油をはじめ、ドレッシングなども販売しています。

-●食用油はいつ頃から食べられているのでしょう。
油の食文化はものすごく古く、平安時代、もっといえばヤマトタケルノミコトまでさかのぼります。昔から油はとても高価で、人々にとって貴重なエネルギー源でした。例えば、織田信長の時代に活躍した斉藤道三が天下統一を狙ったのは、自身が油商人で、お金になる油の原料をしめたかったからという説があります。

明治の中頃になると日本に西洋文化が入ってきて、天ぷらや揚げ物を一般家庭でも少しは食べられるようになりましたが、それでも油はとても貴重な調味料でした。私が祖父からよく聞いたのは「油一升・酒五升」「油一升・醤油一斗」という言葉です。油が一升欲しければ変わりに酒を五升持ってきなさい、ということです。それに、昭和37年の資料によると、当時は福岡だけで油屋が500軒もあったそうです。ほんの50年ほど前までは、どの町にもお米屋さんや八百屋さんと同じように油屋さんがあったのですよ。しかし、今では福岡に4軒しかありません。

また、最近は医者が「油をとっちゃいけない」と言ったりするようですが、油は決して敵ではありません。「油断大敵」なんです。「油断」すると痩せる。「油断」すると太る。適度に油は必要なのです。もちろん油の中でも選ばないといけませんが、何千年も西洋で使われているオリーブ油や、日本古来のごま油、なたね油が体に悪いわけがありませんよね。

-●なたね油とサラダ油との違いを教えていただけますか。
サラダ油ができたのは昭和24、25年頃です。「サラダ油」とは、特別にそういう種類があるわけではなく、油が凍らないように製造工程を1つ追加した油のことを指しています。

今のサラダ油は大豆油となたね油のブレンドが多いですが、昔は大豆油だけで作られていました。しかし、大豆油は油のもちが悪く、天ぷらの揚がりも悪いということで、なたね油をブレンドして熱安定性をよくし、コシを強くしたのです。

ちなみに、大豆油が多く流通しはじめたのは高度経済成長の頃、大豆を大量に消費するようになってからです。家畜のエサや醤油を作る際、大豆は脱脂しなければ(油をぬかなければ)いけません。エサや加工品の副産物として大豆油が大量にできたので、食用油に活用したのです。

つまり大豆はメインを牛や豚が食べ、かすの油を人間が食べる。一方、なたねはメインの油を人間が食べ、かすが肥料にまわります。これは大きな違いです。弊社がなたね油にこだわり続けているのも良質なものをお届けしたいからです。

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