商社の畜産部からスタートし、輸入牛肉の自由化を経験
-●食品業界に入ろうと思われたきっかけは?
私は鳥取県境港の出身なんですが、小さい頃から生き物が好きで、小学生の頃はずっと飼育係をしていました。中学、高校でも生物が得意だったので、漠然と動物や農業に携わる仕事に就きたいと思い始めたんです。それで、大学は鳥取大学の農学部に進み、卒業した1987年に小さいながらも総合商社に入社しました。所属は大阪の畜産部です。
-●当時、輸入牛肉は国に規制されていたのですよね?
ええ。その頃、日本は牛肉の輸入量が決められており、指定36社の商社だけが、その輸入枠を割り振られていました。指定商社が輸入した牛肉は農林水産省の外郭団体である「畜産振興事業団」がいったんすべて買い取り、国内の問屋や全国の業者に販売していたんです。需給調整をして、国内の畜産物の価格を維持するためですね。
牛肉の輸入が自由化されたのは1991年で、それからはアメリカ産の安くて品質のいいお肉が大量に日本に入ってくるようになりました。アメリカにとっても、日本は売れない部位を買ってくれるありがたいパートナーだったんですよ。当時のアメリカ人はハラミはまったく食べなかったですし、焼肉文化もないのでバラ肉も需要がありません。
自由化のあとは、豚バラより牛バラのほうが安い時期も長く続きました。だからこそステーキチェーンや焼肉チェーンが生まれ、あれだけの価格勝負ができたんでしょうね。
-●青山社長はその頃、どのように過ごされていたのでしょう?
総合商社では4年ほど畜産物の輸入のイロハを学ばせていただきました。ただ、毎日書類ばかりを相手にしていたので、「もっとお肉の近くにいたい」という思いが強くなり、自由化の年に同じ大阪の食肉専門商社に転職したんです。その会社はアメリカの大手パッカーと良い信頼関係を築き、高品質のお肉を大量に輸入していました。私たち営業マンはそれを問屋さんに販売するのですが、自由化が追い風になっておもしろいように売れましたよ。
若気の至りと恩人との出会い。そして、独立へ
ただ、当時は社内の人間関係がいろいろと複雑だったこともあって、若気の至りといいますか、数年で辞めてしまったんです。それからいろいろあって、なんのゆかりもない広島に行きました。そのとき、嫁さんのお腹の中には子供がいたんですけどね・・・。それを知った最初の商社のときの先輩に、「お前はアホか」としかられまして(笑)。大阪でアイマックという会社を経営していた岩井社長を紹介していただき、岩井社長のはからいでアイマック広島営業所を新しく立ち上げて、任せていただけることになりました。
-●アイマックではどのようなお仕事を?
アイマックは商社のように輸入した肉をそのまま売るのではなく、加工して販売していました。例えば、大手弁当チェーンの焼肉弁当やサーロインステーキ用のお肉などです。最初は私1人だったアイマック広島営業所もしばらくすると人数が増え、それなりに利益をあげるようになりました。そして、10年ほど所長を務めた頃、意を決して岩井社長に独立の話をしたのです。「広島に土着したいと思っています。今の商売をいくつかわけてもらって、独立させてもらえませんでしょうか」と。ドキドキでしたよ。拾っていただいたご恩もありますし。
10秒か20秒か沈黙が続いて、岩井社長が一言「わかった、そうせい」と。それで「どれくらいわけていただけますでしょうか?」と聞いたら、「なにを言うとんねん。お前が全部作ったんやから全部もっていけ」と。本当にすごい人ですよね。涙が出るほどうれしかったです。
高品質なカナダビーフにかけた思い
-●現在の事業内容を詳しく教えてください。
主力商品であるカナダビーフをはじめ、オーストラリア、メキシコなどから牛肉を輸入・加工して、業務用卸様や飲食店様に販売しています。弊社の特徴は、食肉卸でありながら、工場も配送車も持っていないことです。こういうと競争上不利に聞こえますが、持っていないからこそ私たちには自分の“都合”がないのです。つまりは工場が1つあれば、すべての要望に応えられるのか、という話なんですよ。ハンバーグを作る工場と肉をスライスする工場は違いますから。私たちは取引先様の要望やニーズをヒヤリングして、それに応えられる最適な原料と工場を選択し、スピーディーに商品提案することを信条としています。今の商売を続けていくなら、自分の都合になってしまう工場は、かえって持っていないほうがいいと思っています。
-●カナダビーフを扱おうと思ったきっかけは?
2003年にBSE問題でアメリカ産の牛肉が禁輸になったとき、ほとんどの企業がオーストラリア産に切り替えました。しかし、ご存知のとおり2005年には20か月齢以下、今年2月には30か月齢以下の牛に限定してアメリカ産の輸入が再開しています。輸入を再開すれば、大企業はまたアメリカ産に飛びつくことが目に見えていました。でも、私たちのような広島の小さい会社が、またアメリカ産をやってもおもしろくないでしょう。やるんだったら、大手とは違うことをやりたい、僕らにしかできないことをやりたい、と思っていたんです。